元和元年(1,615年)大坂落城の後、徳川家康の命により、その旗本の久貝因幡守正俊公(くがいいなばのかみまさとし)が河州交野郡(四条畷・寝屋川の東部地域)を采地された。その頃長尾の丘陵地は荒野で河内、山城の国境で交通の要所であり、古来から戦略上の要地であったため、ここに陣屋を営まんとした。
陣屋を建てるには村おこしが必要と久貝氏の家来であった細谷善兵衛氏は戸数 13戸の村民や近隣村民を集め、彼らと共に長尾の荒野山林を開拓し新田や畑を造った。
開墾地は良い土壌で穀物の増収があり、この丘陵は「福をもたらす岡」とのことから「福岡村(※1)」と名付けたとのことである。 その後も開拓を奨励したため、近隣村落からの移入者も次第に多くなり、慶安三年(1,650年)には戸数 33戸に増加した。
「鎮守をたてて村の団結を図るが良かろう 」と京都長岡天神の分霊を受け、質素な氏神をこの地に建てたのが「菅原天神」の始まりであった。 よって菅原道真公を祭祀する。
その後年には陣屋も建ち、開梱地、戸数は増加の一途をたどる。 やがて摂社として「峠天満宮」や「高野道天満宮」また、「水神宮」「高倉稲荷大神」「皇大神宮」が順次造営された。
当初の氏神天神は藁葺き屋根の粗末なものであったためか、この間1,739年には氏神再建、1,755年拝殿再建との記録もあり、その都度、村民、氏子の力によって修復や補修を繰り返してきた。 近年になり神殿、拝殿、社務所建物は老朽化が著しく進み、改築や修繕が困難となってきた。
平成3年の年頭から神社再建の機運が高まり、氏子崇敬(すうけい)者の皆様の支援・協力により、現在のお社の造営事業が同年から始まり、平成6年3月27日に竣工した。
※1:「福岡村」はその後「長尾村」と改称され、明治22年(1,889年)藤坂村と合併して「菅原村大字長尾」となり、昭和15年に菅原、津田、氷室の三ヶ村が合併して「津田町大字長尾」と変遷し、昭和30年に枚方市と合併し現在に至ってる。
( 「北河内のお宮」(大阪府神社庁第三支部 平成21年発行)より抜粋)